いただきます

父の仕事の関係で、小学校3年間をアメリカで過ごした後、今度はオーストリアのウィーンに転勤です。あわただしい小学生時代です。

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オーストリアでの学校教育

オーストリアは永世中立国で、様々な国際機関が集まっていました。そのため、オーストリアに赴任になった親の子女たちのためにイングリッシュスクールやアメリカンインターナショナルスクールがあり、大使の子女や国際機関勤務の親の子女たちがそういった学校に入学するようになっていました。

父は商社でしたが、直前の赴任先がアメリカで、家族でやっと英語に慣れたあとすぐにドイツ語圏でドイツ語の現地学校に子供を入学させるのは子供に相当なストレスを与えると思ってくれたのか、アメリカンインターナショナルスクールに入れてくれました。ウィーン市内と郊外の間にある素敵な私立の学校です。幼稚園、小学校、中学校、高校とありました。アメリカで3年過ごしたあと、ウイーンのアメリカンスクールの6年生に入ることになりました。

そこは大変ユニークな学校で、アメリカの自由と、ウィーンという土地柄なのか、文化や芸術に重きを置いた独特の教育方針でした。

強烈な授業

その中で一つ、還暦になった今でも強烈に印象に残っている授業があります。屠殺場の見学です。

アメリカ人もヨーロッパの人々も、元は狩猟民族ですから、基本的に肉食です。農耕民族のアジア人と異なり、かれらは朝昼晩と動物性タンパク質を摂取します。

屠殺場見学

普段、自分たちが食べている動物性食材がどのようにしてできているのかをきちんと見せるという教育です。日本ではタブー視される屠殺シーンを見学に行ったり、ビデオで見せられました。小学6年生にとっては大変ショッキングなシーンで泣き出したり具合が悪くなる子供が続出します。でもそんなことはお構いなく、屠殺後、皮をはがれ、肉として加工される工程を包み隠さず見せられるのです。
しばらく肉を食べられなくなる子供もいましたが、さすが子供の順応性は高く、数日すればカフェテリアで普通にウィンナーシュニッツェルを食べていました。もちろん、自分もショックを受けましたが、これは大変良い教育だと思いました。生徒全員、この授業を経てはじめて、自分たちは生きていた動物を殺して食べているのだということを実感したのです。普段スーパーに並んだ美味しそうなお肉も、牛や豚の犠牲があって初めて並ぶものです。隠蔽するのではなく、こうやって動物を殺して我々は動物性タンパク質を摂取しているのだということは見せるべきだと思いました。それは牛、豚、鳥などの動物だけにとどまらず、植物だって生きているものを刈って食べているのです。これはきちんと認識すべきでしょう。

食材

日本語の「いただきます」という言葉には、元来こういった動植物の命を奪ってありがたくいただく、という意味で使われている言葉です。現在は形式的に言うだけになってしまっているかもしれませんが、自分たちが何をして、誰の犠牲の上で幸せにおいしいものを食べることができているのかをきちんと認識するべきでしょう。

現在の子供たちは都会で生まれ育ち、スーパーで売っている食材しか目にしません。牛、豚、鶏、魚は切り身になった姿しか見てないのです。親も家で魚をさばいたりすることも少なくなっていることでしょう。

最近の子供たちは、初めて牛を見て「でけー犬!」と驚いたり、ニワトリの絵を描かせると足を4本描いたり、海の中には鮭の切り身が泳いでいると信じていると聞きました。一部の子供だと思いますが、そうなっても仕方がないと思います。それは子供たちが悪いのではなく、我々がみな便利さを求め、スーパーでトレイに入ったきれいな食材を選択するからいけないのです。見たくない、見せたくないところは全て隠蔽して、子供たちにもきちんと教えないからいけないのです。今後、ますます加工食材が流通し、食材ができるまでの過程は隠蔽されていくことでしょう。レンジでチンするだけで食べられるおかずを食べているだけだと、犠牲になっていった動植物に感謝する気持ちはまったく沸きません。これは由々しき問題です。
見えなくなった今だからこそ、自分たちが食べているものがどのようにしてできているのか、正しく教える必要があると思います。

いただくということ

牧場のかわいい羊を見ながらジンギスカンを食べるのはおかしい、とうったえる人がいますが、教育としては正しい方向だと思います。牛や豚、鶏だって同じです。生きている時に触れ合えば可愛いものです。しかし、我々は間接的ではあっても、彼らを殺して食べているのです。その気持ちを忘れてはいけないのです。

授業で屠殺場見学やビデオを見ても、それで菜食主義になることはありません。一時的にショックを受けたとしても、腹が減れば肉を食べます。しかし、生徒たちの中で何かが変わります。
動物たちの犠牲への感謝、動物を育てた方々への感謝、食品を加工している方々への感謝、流通を支えている方々への感謝、最終的に調理してくれた人への感謝の気持ちが生まれます。そして、食材を決して無駄にしてはいけないという気持ちが芽生えます。それが最も大きな収穫でしょう。食卓に並ぶおいしそうな料理を見て、どのような過程を経てこの料理ができたのかを時間を遡って考えるようになります。
そうするとはじめて、「いただきます」の本当の意味が見えてきます。犠牲となった動植物、料理ができるまでに関わってくれたすべての人たちに対する重要な感謝の言葉なのです。

著者
Yama

大学卒業後しばらくは建築設計に従事。その後人工知能の研究所で知的CADシステムやエキスパートシステムを開発。15年ほどプログラマをしていましたが、管理職になるのが嫌で退職。現在は某大学の非常勤講師(情報学)、動物医療系および野鳥写真家、ウェブプログラマ、出版業などをしながら細々と暮らしています。

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