小学校に7校も行くはめになった理由

私ほど多くの小学校に行った人間はいないのではないでしょうか。少なくとも今まで出会った人で、7校を超えた人に出会ったことはありません。別に問題児で退学になって転々としたわけではありません。単に大人の事情に巻き込まれたかわいそうな小学生だったのです。

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日本

1:川崎市立京町小学校

川崎市京町で生まれ、4歳の時に近くの池田町に引っ越しましたが、学区内の川崎市立京町小学校に入学しました。最初の小学校です。そこで1年、2年、と過ごします。勉強が大嫌いで、ふざけてばかりいたので、この頃から先生にひっぱたかれたり、立たされていた記憶があります。当時は体罰当たり前の時代でした。体育や運動会だけは大好きでした。

小学校低学年の頃はとにかく勉強が嫌いで、今でいう完全な落ちこぼれでした。ドリル恐怖症で、集中力がなく、夏休みの宿題もやらず、何かを覚えたりするのが苦痛というか、できませんでした。その頃はそんな病名はなかったと思いますが、今でいう学習障害に近いものだったのでしょう。漢字も九九も社会も理科も、病的なほど覚えることができず、通信簿はほぼオール2です。いつも「落ち着きがない」と書かれていました。

2:横浜市立大口台小学校

その後、父が横浜に土地を買って家を建てたので、必然的に転校することとなりました。学区の小学校は、横浜市立大口台小学校です。ここで3年生1年間を過ごします。

1年しか行けなかったのは、父が急に転勤になったからです。アメリカのサンフランシスコです。父は先に行っていましたが、姉と私は一応年度の区切りの3月まで大口台小学校に行って、4月に母と3人で渡米することになりました。

サンフランシスコ

3:スートロアネックス(Sutro Elementary Annex)

サンフランシスコでは、いきなり現地の公立小学校に入れられました。落ちこぼれの小学3年生ですから、もちろん英語なんて聞いたこともありませんし、アルファベットすら書けない状態です。
日本で小学3年を終えてアメリカに行きましたが、アメリカは9月はじまりなので、4年生の途中に入学することができず、3年生の途中に転入することとなります。
住むことになった家から2ブロックほど離れた場所にSutro Elementary Annexという学校があり、そこが学区でした。Sutro Elementary AnnexはSutro Elementary Schoolという大きな小学校の分校です。アメリカは広いので、小学校の学区も広く、本校の周辺地域にいくつかの分校があって、低学年の児童はそちらの分校に通学します。家からも近く、プレファブの平屋でこじんまりしたアットホームな学校でした。生徒10人くらいに先生が何人かいるような感じで、手厚い管理ができたのでしょう。
こんな英語が一言も話せない日本人がいきなり編入してきても、生徒も先生も大変親切に一生懸命英語を教えてくれました。子供の順応性は高いので、お陰様で半年もするともう友達とプレイグラウンドで遊んでいました。
アメリカに行って最初の学校なので、強烈な印象として今でもよく覚えています。

4:スートロスクール(Sutro Elementary School)

Annexは3年生までなので、4年生になると、Sutro Elementary Schoolに行かされます。ちょっと距離がありますが、歩けない距離ではありません。こちらは鉄筋の大きな学校です。校庭も広く、良い学校でした。そこで4年生1年を過ごしました。

アメリカの小学校は日本の小学校と正反対で、ほぼ毎日遊びに行っているような感覚でした。公立の小学校では、教科書も筆記道具もすべて学校のものを借りて使います。貧富の差が教育の格差になってはいけないという考えに基づいた徹底したシステムです。したがって、教科書は学校のもので、家に持って帰ったりしてはいけません。そのため、毎日の宿題もないし、予習復習を強制されることもありません。勉強嫌いには夢のようでした。

よくアメリカのマンガやアニメにあるように、児童たちはランチボックスだけを持って学校に行きます。そして、学校から帰るとプレイグラウンドで日が暮れるまで遊ぶだけです。勉強しろとか、宿題しろとか、一切言われないのです。
週末は家族で過ごすのがあたり前なので、宿題なんか出ませんし、冬休み、春休みなども学校から何も持って帰ってはいけないので、宿題は出ません。一番長い夏休みは学年の変わり目なので、もちろん何も勉強は強制されず、100%遊ぶだけです。基本的に勉強は学校の中だけで行うものという考えがあるのでしょう。まさに天国です。

4年が終わった頃、ちょうどかの悪名高いバッシング制度( 差別撤廃に向けたバス通学:Desegregation busing :ジャパンバッシングのBashingではなく、バスのBusingです)がはじまります。
当時のアメリカは人種差別や貧富の差による教育格差をなくすために、色々と政策を試みている時代でした。地域で分けた学区の小学校に行く方法だと、黒人街の子供は黒人街の小学校、スラム街の子供はスラム街の小学校に集まることになり、ますます人種差別や貧富の差による教育格差が激化するという悪循環でした。それを緩和するため、学区をシャッフルして、さまざまな地区の子供をスクールバスによって様々な小学校に行かせるという政策です。
家の近くの学校ではなく、シャッフルされた遠くの小学校に通うことになるのです。1年間は同じ学校に通いますが、毎年、どこの学校に行くか分かりません。
その強制バス通学制度に巻き込まれることになります。

5:ラファイエットスクール( Lafayette Elementary School )

5年生で行く学校は Lafayette Elementary School に決まりました。毎日家の近くの集合場所を拠点にバスの送り迎えがあり、その学校まで往復します。よく古いアメリカ映画に登場する黄色いボンネットバスです。しばらく市中を走り回り、さまざまな地域で子供たちをひろって学校に行くシステムです。5年生1年間はこの学校で過ごしました。
確かに、前のSutro Schoolでは黒人がほとんどいませんでしたが、この学校では、白人、黒人、ヒスパニック系、東洋系など、あらゆる人種がごちゃまぜになっていました。

面白いことに、クラスには黒人がたくさんいるのに、黒人を差別してはいけないよ、という道徳の授業のようなことが頻繁に行われていました。黒人の生徒たちは嫌ではないのかと、子供心に心配になりましたが、彼らは今まで差別的な扱いを受けてきて、自分たちも十分それを認識しているからか、特に意に介していないようでした。日本だったらうやむやにしたいようなことを、アメリカはどんどん表に出して先生が話したり、生徒同士で議論をさせたりします。文化の違いを改めて感じさせられました。

6:フランシススコットキースクール( Francis Scott Key Elementary School )

6年生で行く学校は、 Francis Scott Key Elementary School に決まりました。まったく知らない遠くの学校です。でも、同じように近くまでバスが迎えに来てくれて、帰りも送り届けてくれます。こちらも見事に様々な人種がほどよく混ざった感じでした。
アメリカの小学校は大きく、中にきちんと食堂もありました。基本的に子供たちはランチボックスに昼食を入れて持って行きますが、生活が困窮している家庭の子供たちは食堂で給食をふるまってもらえます。おそらく親の収入とかを申請すると昼食の需給資格が得られるようになっていたのでしょう。
貧富の差によって子供たちの教育に格差ができるのは悪だとして、始めたことですから、徹底していました。こういうところはアメリカのすごいところです。どんなに貧困でも、教科書も筆記用具も貸してくれて、手ぶらで学校にさえ行けば教育を受けられ、お昼ご飯はタダで食べられるのです。
そういう人たちも別に差別されるわけではなく、給食の子供とランチボックス持ってきている子供は白人も黒人もごちゃまぜで一緒に食べたり、おかずをシェアしたりして食べていました。そういう部分ではBusing政策は一見うまくいっているようでした。

Francis Scott Key Elementary School には、1年いられませんでした。在籍したのは、約半年です。また父の転勤が決まったからです。今度はオーストリアのウィーンです。

ウィーン

オーストリアはドイツ語圏です。いくら子供は順応性が高いからといって、ようやく片言の英語が話せるようになった矢先にウィーンの普通のドイツ語の公立学校に転入するのは酷だと思ってくれたのか、親の采配でウィーンのアメリカンインターナショナルスクール(AIS)に入学することとなりました。

7:アメリカンインターナショナルスクール(American International School:AIS Vienna)

アメリカンインターナショナルスクール(以下AIS )は、ウィーンの市街と有名なウィーンの森との境界に建つ、幼稚園から高校まである私立の学校です。学校の裏にはすぐにウィーンの森が広がっている大変良い立地条件の学校です。
オーストリアは永世中立国なので、国際原子力機関 (IAEA) や国際連合工業開発機関 (UNIDO) など、さまざまな国際機関の本部があり、各国のお偉いさんが集まる人種のルツボでした。ウィーン自体は小さな町で、そこに世界中の大使館も集まっていたので、国際機関勤務の人たちの子女、大使の子女たちはほとんどAISに通っていました。いわゆる育ちのよろしい、お嬢様、お坊ちゃまが通う学校です。アメリカの悪ガキどものごちゃまぜ学校とは180度違う児童たちです。
これはこれでまたギャップが激し過ぎて戸惑いましたが、何とか乗り越えました。アメリカのゆるゆるの天国のような小学校生活から、現実に引き戻された感じです。アメリカンと名がついていますが、生徒たちの自主性を重んじる比較的厳しい学校でした。
アメリカで小学6年生の途中だったので、AISの6年生に編入ということになりました。これでとうとう7校目です。ここで半年ほど小学6年生を過ごし、小学校を卒業ということになります。ですから、卒業した小学校はどこか、と聞かれると、最後に数ヵ月過ごしたAISとなります。そして、そのままAISの中学校に進むことになります。

この学校の方針は変わっていて、 先生が一から十まで教えるのではなく、何かを見せたりテーマだけを与えて、生徒はそれを調べてまとめたり、レポートにまとめて発表したり、議論させたりということを繰り返しさせられる授業方針です。
知識を詰め込むのではなく、考えることや考える楽しさを徹底して教え込まれた気がします。勉強って、させられることではなく、自分ですることなんだ、と気づかせてくれました。小学校に入学したしたときからのモヤモヤが一気に解消した気がします。詰め込み平均主義の日本の小学校も、自由と権利を主張するアメリカの小学校も間違っていたと感じました。自分が好きなことを自ら勉強するのは楽しいことなのです。 AISでそれを知ったことが私にとっては最大の収穫となりました。

これで私の小学校遍歴は終わりです。最初の京町小学校は2年通いましたが、その他は1年以下で、言葉や文化の違いもあるので、小学校時代は長く付き合う友達というものもできず、自分の人間形成に深く影響を及ぼしたと思います。60を過ぎても人見知りで、根暗で、知らない人に会うのが嫌いな人間のままです。
中学で日本に帰ってからは学校の試験も受験も英語で苦労することがなかったことは、暗記嫌いの私には大変良かったことだと思いますが、性格がこんな風にねじ曲がってしまったのは、当時の大人の事情で小学校7校も行くはめになったことが大きな原因だと分析しています。いまだに友達がいません。小学生の頃から一人で遊ぶ癖がついてしまったので、今でも一人の方が楽なのです。人が集まる場所は極力避ける性格になってしまいました。元からなのかもしれませんが、多分に小学校7校も行ったことが影響していることでしょう。

やっぱり小学校くらいは落ち着いて、1校に通ってちゃんと卒業した方が人格形成上はよろしいかと思います。

著者
Yama

大学卒業後しばらくは建築設計に従事。その後人工知能の研究所で知的CADシステムやエキスパートシステムを開発。15年ほどプログラマをしていましたが、管理職になるのが嫌で退職。現在は某大学の非常勤講師(情報学)、動物医療系および野鳥写真家、ウェブプログラマ、出版業などをしながら細々と暮らしています。

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