わが家は無宗教です。オヤジが完璧な合理主義者だったので、神や仏、前世や死後の世界などといったことは全て否定し、原子でできている人間も、死ねばバラバラの原子に戻るだけだ、という考えです。無から生じて、無に帰ると。
私たち家族もそのように教育されてきたので、家族全員無宗教の合理主義者です。
小さい頃はそれが普通だと思っていたのですが、日本でもそれは少数派であり、さらに海外に住むとそんな人間はほとんどいないことに気づかされました。
アメリカ
アメリカは比較的宗教色が薄いのですが、住んでいたサンフランシスコでは基本的にキリスト教の人が多かったようです。アメリカは州や都市によってある宗教が主流であったり、宗教色が濃いところや薄いところがあるようで、無宗教の私たちにはついていけない様々な独自の文化があるようです。
例によってアメリカは自由すぎる国ですから、バリバリのキリスト教信者がいる一方、まったく関係ないという人が混在しています。それを知らないと友達と遊んだりするときに困ることもあります。「日曜日遊ぼうぜー」などと言っても、「日曜日は教会に行くからダメー」と断られたりします。
それ以前に、アメリカ人は、アメリカという国とか、国旗とか、自国をまるで神のように崇拝しているように見受けられました。アメリカの小学校では、毎朝起立して右手を左胸にあて、教室の一番前に必ず掲げられている国旗に向かって何やら呪文のようなものを言わされます。
I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.
毎朝、国旗に向かってこのように忠誠を誓わせるのです。Godが出てきます。One nation under Godですから、この国家は神の元に作られているということをうたっているのです。まさに宗教ですね。アメリカを信じて忠誠を誓っていれば救われるということなのでしょうか。
これも面白いことに、強制はされません。他に忠誠を誓う神を持っている人は座ったまま無視しています。さすが自由の国アメリカです。90%くらいの子供たちは立ち上がって忠誠を誓っていましたが、10%くらいは参加しませんでした。当時は何を言っているのかわかりませんでしたので、私もやりませんでした。50年前の話なので、アメリカの小学校で今もこの儀式を毎朝やっているのかどうかは分かりません。
毎朝かかさず、旗に向かって神妙にお祈りのような呪文を唱える姿をみて、これはまさしくアメリカという名の宗教なのではないかと感じました。
アメリカに住んで驚いたことの一つに、多くのアメリカ人に、食べるときの「いただきます」と言う儀式がないことです。食事会などでも、来て、席について、いきなり食べはじめます。日本人だったら誰しも一応集まってから「いただきます」とか言ってから食べはじめますが、それがないのです。最初はびっくりしました。さすが自由の国です。
しかし、これも自由と権利と個性の国なので、その中で一人だけ急にお祈りをはじめる人もいたりします。他の人は特に意に介しません。祈りたい人は祈って、祈りたくない人は祈らないのです。誰もそれを責めたり、なじったりしません。自由です。
一度友達の家の夕食に招待されて、テーブルについて食事を出されたので、アメリカ流でいきなりガツガツ食べはじめたのですが、その家族は皆テーブルでお祈りのポーズをとって、家長が神に対して感謝の言葉を述べはじめました。先に一人でガツガツ食べていて大変バツの悪い経験をした覚えがあります。そのまま食べ続けて良いのか、一緒にお祈りポーズを真似た方が良いのか迷いましたが、とりあえず終わるまでじっとしていました。それまで知らなかったのですが、その家庭は敬虔なクリスチャンだったのです。以降、アメリカ人と食事をするときは、相手の行動を見てから食べはじめるようにしています。
アメリカは人種だけではなく、宗教や文化、主義なども各自バラバラの人間が集まった国です。人々もそれをまとめようと思ってもいません。みんなバラバラで、それぞれが信じるものを信じて生きています。それも自由であり、個性なのです。
ヨーロッパ
ウィーンに引っ越して3年ほど住みましたが、その間、ほとんどの西側の国々には旅行で行っています。アメリカと打って変わって、ヨーロッパはどこへ行っても宗教抜きでは語れません。宗教が色濃く残っています。そもそも、ヨーロッパのほとんどすべての街は教会を中心に設計されています。なんでもかんでもまず教会ありきです。
いくら私の家族が無宗教であっても、その街に住んでいる以上、教会は避けて通れません。日本のお城と城下町のように、必ず中心に教会があって、そこから放射環状型に道路が作られ、町は成長して行ったのでしょう。旅行に行ってもまずは教会を目指して、そこから町を見ることになります。
キリスト教のことはよく知りませんが、ヨーロッパの古い教会という存在は面白いもので、日本で言ったら神社と寺と墓地と集会場の機能をあわせもった施設のようです。結婚式もやりますし、葬式もやります。裏や地下には墓地があります。教会によっては時計台の役割もありますし、火の見やぐらの役割もあるでしょう。人が集まる場所でもあり、出会いの場となることもあるでしょう。悩みを相談したり、懺悔をする場所でもあります。外部の人たちには、観光名所であったり、博物館の役割もあるでしょう。ヨーロッパの教会は、まさに街のセンターを担うにふさわしい複合施設なのです。
彼らは何で人骨が平気なのか
ウィーンも例外なく、教会を中心に街が作られています。中央の教会は Stephansdom と言って、12世紀あたりからある歴史的建造物です。モーツァルトの結婚式も葬式もここで行われた記録があります。
ウィーンの文化や歴史を学ぶために、家族で何度も訪れましたし、学校でも授業の一環として行きました。
ヨーロッパの街はみな古く、中心地はほどんど土地がありません。にもかかわらず、街はどんどん大きくなり、人は産まれ、死にます。どうやっても墓地が間に合わないのです。仕方がないので、古い墓地を掘り返して繰り返して使います。その際、出て来た骨を教会に保管するのです。教会の壁に積み上げられていたり、地下に山のように積まれたりしています。多くは頭蓋骨と大腿骨で、その他は処分されてしまうようです。教会の墓地は狭く、多くの教会は地下にカタコンベと呼ばれる広大な迷路のようになった空間があり、そこが納骨堂のような役割を担っていて、観光客が見学できるようになっています。
Stephansdom も地下に広いカタコンベがあり、人骨がうずたかく積まれています。特に印象的だったのは、17世紀にペストの大流行でヨーロッパ中で何十万人も亡くなりましたが、その時の骨がたくさん収められています。収められているというと聞こえは良いのですが、実際は床にごろごろ転がっていたり、無造作に積み上げられていました。その間を観光客は歩くような形で見学できます。これも50年前のことで、今はどうなっているのか分かりません。
頭蓋骨
日本に住んでいると、普段人骨を見ることはありません。火葬場で骨をひろうことはありますが、一般的にはバラバラになっていて原型をとどめていないものです。本物のいわゆるシャレコウベと言われるものはおいそれと目にしないものです。最近はドクロマークとか、スカル柄と呼ばれる頭蓋骨の図案が流行っているようですが、日本でそのホンモノを見たことがある人はほとんどいないでしょう。もちろん、私も日本では見たことがなく、アメリカでも見たことがありません。
しかし、ヨーロッパでは、日常的に頭蓋骨を目にします。教会に行けば沢山の頭蓋骨があります。美術館に行ってもドクロの絵はたくさんあります。どうしても共感できない文化の違いを感じるのはそういうところです。われわれ日本人からすると人間の頭蓋骨なんて薄気味悪いし、ましてや子供の頃ですから、たとえ無宗教であっても恐怖を感じるものです。しかし、現地の子供たちは、まったく平気で、カタコンベに大量に積まれているドクロを触ったりして遊んでいました。普段から見慣れているからなのか、宗教的理由で頭蓋骨に対する恐怖心が生まれないように教育されているのか、私からはまったく理解できない行動をしていました。この文化の違いは未だに克服できていません。
世界一美しい街と言われ、サウンドオブミュージックの撮影地としても使われたHallstattの街の中央の教会も骨で有名で、美しい教会の壁は頭蓋骨で覆われています。のどかな美しい街と美しい湖の風景とは対照的に、教会の中は人骨だらけなのです。特にHallstattは崖と湖の間のわずかな土地しかなく、墓地も狭いので掘り起こすサイクルも短いという説明を受けました。頭蓋骨にはその親族が描いたのか、文字や家紋のような絵がたくさん描かれています。
ある時は友達の家に行ったら、テーブルの上にドクロが置いてありました。これはどうしたんだと聞いたら、「そこの骨董屋で売ってた」と言って、顎骨をパカパカさせて遊んでいました。ぎょっとしました。よく絵画にドクロを燭台(しょくだい:ろうそくを立てる台)にしている光景を目にしますが、本当にあるのです。買う方も買う方ですが、そんなものが売られていることが信じられませんでした。家の中に誰だったのかわからない人の頭蓋骨があるのは気味悪くないのでしょうか。
文化の溝
ヨーロッパに住んで、まさかこんなところに文化のギャップを感じるとは思ってもいませんでした。骨に対する認識があまりにも違い過ぎて、どうもそれ以上深く付き合えないのです。「骨の壁」とでも言いましょうか。
彼らはきっと物心ついた時から教会で人の頭蓋骨を見たり、美術館で頭蓋骨を燭台にしている絵を見ているので、我々とは骨に対する感覚が大きく異なるのでしょう。
余談ですが、ウィーンのお肉屋さんに行くと、牛や豚の頭がそのまま半分に切られて売っていました。牛の頭を切り落として、縦に真っ二つに切って開いたものです。眉間縦割りですね。まるで解剖図のように、脳や鼻腔、口腔、歯、舌などの断面が見えるように陳列されています。これも最初はびっくりしました。日本でそんな陳列をしたらそのお肉屋さんは客が寄り付かなくなってつぶれるでしょう。でもウィーンのスーパーではそれが普通の光景でした。残念ながら買って帰る人と出会ったことはないのですが、どうやって持って帰って、どうやって調理するのでしょう。牛の頭ですから、かなり大きいし、相当な重量があるでしょう。包んでもらって、ぶら下げて帰るのでしょうか。 少し興味があります。
動物の犠牲を無駄にしない姿勢は良いのですが、われわれ日本人からするとあまりにショッキングでデリカシーを欠いた光景です。違いを知ることは面白いのですが、骨に対する意識といい、お肉屋さんの陳列といい、どうしても埋められない文化の溝があるような気がしてならないのです。